ハッピーエンド目指して只今カナダで修行中なへなちょこフェアリーのお話♪
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健やかな隙のある人になりたい


老いていくことよりも、あたしが恐れていること。
「内面の成長なく、外見だけ年老いていくこと」
「年をとり損ねてしまうこと」

もしかしたら20代というのは、案外シビアな時期で。
理想と現実の狭間にいつも捕らわれていて。
自分探しも、まだまだ荒削りも荒削りで。
無駄な鎧を心にがっちり固めて、失敗することを怯えながら構えている。
「洗練」とも「余裕」とも無縁に、「無骨」ながらにしてどこまでも「野蛮」だ。
世界に恐々と足を踏み入れながら、根拠のない自信で貪欲に手をのばす。
大人にもなれず、子供にも戻れず、いつも何処かで迷子になっている。

宮沢りえの言葉が好きだ。
「完璧じゃなくて、健やかな隙のある人になりたい」
彼女の20代を思うと、この言葉の深さが胸に染みる。

ちゃんと向き合って、苦悩して泣いて喚いて、泣き疲れて、「あたしってバカ」って笑って、はじめて得られる何かがあるかもしれない。
そうしてだんだん大人になって、はじめて「楽しむこと」を覚えられるのかもしれない。
「健やかな隙のある人」かぁ。

いつかそういう風に、笑って言える女性になりたいから。
震えながらでも、手さぐりでも、愚かでも、野蛮でおバカな自分とちゃんと向き合っていかなきゃ、って思う今。
コギト・エルゴ・スム
『我思う故に我在り』
デカルトのこの言葉に出会ったのは、思春期の頃で、
その時のあたしの素直な反応といえば、

「えー!一生かかって考え続けて、分かった事といえばそんだけ!?」

という実に他愛もないものだったことを思い出す。

大人になった今、デカルトの言葉の意味が、ほんのちょっぴり分かるかな?
疑いだせば、確かなものなど何もないように思えてくる。キリがない。
そこは孤独で、暗い暗い世界だ。

あたしが、考えたり、あれこれ悩んだり、思考の渦の中で疲労困憊しているとき。
エルフは、あたしの頭をくしゃくしゃっと撫でて、
「ほらほら。考え過ぎないの!自分が苦しくなるまで考えちゃいけない。」と言う。
おっかしいのは、あたしが「考えることをやめられない」ことを、彼女は百も承知な事。
それでも、言ってくれる。「少しだけ、頭カラッポにしてごらん?」

デカルトが一生をかけて抽出した哲学は、偉大だ。真実だ。
でも、真実が常に幸福と共にあるとは限らない。
大抵の場合、真実は受け入れられないほどの恐ろしい事実のことの方が多いから。

あたしは、一瞬エルフの言葉に、騙されたつもりになってみる。
「何かを信じられる」ことは、とても幸福なことだと思う。
そしてあたしは、そういうエルフの気休めな言葉にいつも随分と救われている気がする。
『我信じる故に我在り』
楽観的で、馬鹿げていて、ひどく滑稽。
でもそれは限りなく優しい幸福だ。
向き合う
ここ数日色々な考え事をしていて、自分の無自覚さからくる鈍感さや狭まっていた視野、
そして新しい発見に出会い、なんか今また新しいスタート地点に立ったようなそんな気持ちがしています。
前の日記でも自己嫌悪とか色々ごちゃごちゃと表現していた事が、あぁ、これだったのか!!!という、とてもショックなんだけれど、でもスッキリした感があるんです。
あたしの中で自己嫌悪として澱のように溜まっていたものは、つまり。
「自分の中に潜む差別や偏見に無自覚的であること」だったんだと思います。
そして、あらゆる差別や偏見を克服するには、
「自分の中に潜む差別や偏見と向き合う不断の努力をし続けること」。
これをなくしては、自分自身も知らないうちに、どんどんどんどん差別や偏見の蔦が広がっていってしまうのではないか、と思ったのです。
それ以外にも、再認識できたこと、気づかされた事、ヒントをいただいた事、もう本当に色々あって・・・、やっぱり対話の大切さも、つくづく感じた次第なのです。
あと、もうひとつ。
「一人ひとりの幸せへの追求が、多様性への寛容へとつながる」ということ。
あたしの中で、他人の幸せがいつも以上に、より自分自身に近い形となって感じられるようになっている自分に、少しまた新しい風が吹いた!!という気持ちなんです。

では、今あたし自身の中にある差別や偏見とは何なのだろうか?という事を、考えてみました。うーん・・・たぶん無自覚的なことや意識的なこと、様々あるんだと思うのですが、
今日はちゃんと自分自身で認識できた事から向き合おうと思います。まず、は。

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静なる強さ


どうしたって気になって、夢中になって見てしまうこの絵。
フィリッポ・リッピの『聖母子と二天使』
2年前、ウフィッツィ美術館でやっと対面できたとき、あたしは感動で暫く動けなかった。
同じ美術館に置いてあるボッティチェッリ作品も好きで、彼はリッピとは師弟関係にあって、そのためか類似点も多々あるんだけれど、でも最終的には、やっぱりこのリッピの『聖母子と二天使』に、あたしは戻ってしまう。

有名な話だけれど、この聖母のモデルとなった人物は、修道士画家であったリッピと恋に落ちて、壮絶なスキャンダルとなった修道女、ルクレツィア・ブーティというひとだ。
事実、誰かに言わせれば、彼女は神の愛を振り解き、背を向けたのかもしれない。
しかし愛する人の手によって描かれたルクレツィア・ブーティというひとは、厳しい批判の中でひっそりと佇むその女性は、確かに聖母の顔をしている、と思う。

あたしはいつも、彼女の消え入りそうな儚げな佇まいの中に、不可侵の、芯の、意思の強さ、静かなる覚悟を見て、そこになんとも言いがたい敬意と羨望の念を抱いてしまう。
しかし、それは「禁断の恋を全うした修道女の情熱」にではない。
そういう類のロマンチシズムは、あたしはあまり持ち合わせていない。

寧ろ。
本来神と結婚しているとされている修道女が、男と恋愛関係に陥ることの罪(敢えて)や、それに伴う世間からの痛烈な糾弾、おそらく自己の中にあっただろう迷いと嫌悪と苦悩、それら全てを受け入れ、その厳冬の中に身を置くことを、彼女は、静かなる強さでもって、彼女の意思と責任において、静かに静かに覚悟しているその不可侵の意思の強さに、だ。

あたしは彼女のその静なる強さに、聖を見出し、どうしようもなく恋をする。
こういう澄んだ瞳の中に、静かな静かな、強い覚悟が生まれたとき。
禁断の恋は、もはや禁断の恋ではありえない、とあたしは思う。
逆に言えばこのような覚悟なしに、恋だの愛だのと、気軽には語れない気もする。

ルクレツィア・ブーティというひとに、その愛ゆえに、石や罵声を投げつける人は、もはや何処にもいないだろう。
静なる強さは、その静寂なるが故に、果てしなく強い。

家族を傷つけるかもしれない、失うかもしれない。
愛する人の家族を傷つけ、愛する人から家族を失わせるかもしれない。
もしくは一生、秘密を抱えたままで、愛する人と生きるだけの意志と覚悟と責任を持つこと。

同性愛は、社会的に糾弾されるに値しないものだとあたしは信じている。
その社会的権利も保障されるべきだし、性の多様性に寛容である社会でなければならない、と確信している。
しかし個人的な覚悟という意味では、静なる強さを持たざるをえないこともある。

ルクレツィア・ブーティのその静寂な瞳の前に立つたびに、
あたしは、いつも襟を正さずにはいられないのです。
自己嫌悪の訳
特に何があった、というわけではないのだけれども。
ふと気がつけば、自分自身を許せなかったりして、ちょっと焦ったりします。

あたしは性善説か性悪説か?なんて考えるより、
「人間には善人も悪人もどっちだって、色々いるよ」と思うタイプです。
ちなみに、あたしは善人ではないし、善人になれるとも思ってないし、かといって積極的な悪人でもないわけで(犯罪歴ないし)、とりあえず少なくとも「悪いコトをしないようには努力しよう」と意識的に生きてはいます。
偽善者といえば偽善者ですね。だって善人ではないんだもの。
ってゆーか、善人って一体どんな人のことを言うのだろう?

そして正義感・・・これもそんなに強くはないです。
あたしはとても個人主義なので、自分の価値観を他人に押し付けてまで相手を正そうとするような、そんな正義感はありません(犯罪や命に関わることじゃなければ)。
そういう距離感では、あまり他人と接してないような気がします。
まぁ、お互い大人なわけで、それぞれの価値観や思想なんかがあるわけだし、ね。
あたしはあたしの価値観で、あたしの思想で、あたしの義務と責任と権利のバランスで生きていくし。
あなたはあなたの価値観で、あなたの思想で、あなたの義務と責任と権利のバランスで生きていけばいいし。
それでも、一緒に楽しい時間は過ごせるし、悲しいときには慰めあえる。
あまりにも不条理な出来事には、一緒に考えられるし、手をつないで協力して抗議もする。
たまにはお互い甘えたっていいし、たまにはお互い愚痴だってきいてあげられる。
好きなお友達には「スキ」っていうし、嫌いというよりどうしても許せない人というか、共存のバランスを崩す人とは距離を置く。
愛してる人には「愛してる」っていうし、ハグもすればキスもメイクラブもする。
愛してる人とは話し合いを重ねて心を添わせて、信頼を築き、理解を求め、共に生きる。
絶対的な正義なんて分からないし、持ち合わせてもいない。
それでも少なくとも共存共生は、できるよね?
最低限の良識と常識と思いやりと協調性と平和主義と、それさえお互いに守っていれば。
そんなスタンス。

そんな感じで生きているせいか、最近はあまり他人とトラブルや喧嘩になりません。
他人に本当に軽蔑されたり、叱られたりして、死にたくなるほどの自己嫌悪に最近陥っていないです。(もしかしたら、それに気づけない程に、あたしは鈍ってるのかしら?怖)
大変なことには、たまに「いい人」だって、勘違いされちゃうこともある。
あたしは偽善者だけれど「いい人=どうでもいい人」という距離感も嫌いではない。
善い人にはなれないし、善い人がなんたるか、なんて想像もつかない。
でもね。
宮沢賢治じゃないけれど、「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ  ワタシハ ナリタイ 」という気持ちがある。

そんなあたしは、最近ふと振り返れば、自分自身が許せないことがある。

最近自分自身が許せないのは、偽善者な自分じゃなくって。
最近自分自身が許せないのは、ちょうどいい距離とスタンスではなくって。

きっと、自分自身の負や悪と、心から対峙している時間をきちんと持っていないこと。
「泣いたり、凹んだりすることはあっても、まぁ、一応社会の中でうまく生きてる」
そのことに、安心してしまっている。
ねぇ、あたし。
自分自身の負や悪と、心から対峙し内省し続けることを怠っていると、
「どうでもいい人」にも「偽善者」にもすらなれなくなっちゃうよ?

なーんて、あたしはエルフにさえ理解してもらえればいいって、常日頃から思っていながら、ここに書く時点で、宮沢賢治には、程遠いな(苦笑)

自分自身の偽善を自己認識しながら、開き直っていることよりも、
他人とちょうどいい距離を保って「どうでもいい人」で居心地良くいることよりも、
自分自身の負や悪に気づけない人間になってはいけない。

内省のない、思考のない、自分自身の負や悪に鈍感な、そういう人間であってはいけない。
ちょっと自分自身を許せない今日この頃。

☆最近疑問に思うコト☆
「KY=空気読めない」の「空気」ってなんですか?空気読めないことは悪いことなのですか?暗黙の了解でコトを済ませて、存在するようなしないような「空気」を読んで、議論を避ける事はイイコト?それで、「KY」って密かに嘲笑さえしとけば万事解決?
なーんて思っちゃうあたしは、きっと所謂KYなんだろうと思います(笑)
でも、この世の中、あまりにも簡単に「KY」で斬るのも、どうなのかしら・・・?

あ・・・また内省とかいいながら、こんなコト言ってるあたしは、まだ内省と対峙が、もっともっと必要みたいです(~_~;)
We are not a monster but people


第19回世界文化賞に、ユダヤ人指揮者のダニエル・バレンボイム氏が選ばれました。
彼は、ユダヤ人でありながらイスラエル政府のパレスチナ政策を批判し、「ナチス寄り」だとされるワーグナーを指揮し、そしてアラブとイスラエルの若者たちからなるウェスト・イースタン・ディヴァーン・オーケストラを指揮しています。

20世紀も21世紀の今現在も、国家が壁となり、情報を遮断・操作し、人々はその隔絶された中で憎悪をつのらせ、残酷と悲惨な惨状へと陥り、人間がモンスターとなっている現状があって。
だからこそ、国家という壁を超え、限界を取っ払い、誰かと誰かが出会う、音楽という芸術の中で、日常の中で、オーケストラという小さな世界の中で、互いにとってのモンスターがはじめて人間同士となりうる、はじめて人間同士として出会える、その活動は、非常に価値ある意義深いものだと思うのです。

そして、ミャンマーの民主化デモは、国家権力が、壁となりうるだけではなく、時として丸腰の市民や僧侶に、牙を銃を、向けるということを改めて知らしめています。
1968年プラハの春のチェコ事件を、
1989年中国の天安門事件を、
沖縄の辺野古基地で座り込み運動を続けるおじいやおばあに、出動した自衛隊を、
忘れたらいけないとあたしは思う。

国家権力をリヴァイアサンにしてはならない。
あたしたち市民は、モンスターではない。人間です。
「国民に銃を向けるな!」
「国民を殺すな!」
今ミャンマーに響くシュプレヒコールは、丸腰の、日々の生活を人間らしく過ごしたいと願う人間としての声であり、
バレンボイム氏の活動は、国家というリヴァイアサンの意図のもと、モンスターにされる人間たちを、その人間性を取り戻すためのひとつのシュプレヒコールなんだと思う。

人間たちの間に立ちふさがる壁となり、人間たちをモンスターへと仕立て上げ、
時として人間たちに牙や銃を向ける、国家権力に言いたい。

Take the wall away which separates us;don't force us to be a monster;
don't shoot us, don't kill us.
We don't want to be a monster, we want to be people without any weapons but with hope for peace and peaceful life.

私達を隔てる壁を取り払ってください。
私達をモンスターにしないでください。
私達に銃を向けないでください、私達を殺さないでください。
私達は、モンスターになど、なりたくないのです。
私達は、武器ではなく、平和と安らかな生活への希望を持つ、人間になりたいのです。
コトノハ
例えば。
あたしは、「うるさい!クソババア!」なんて言葉を一生吐き出すことはないと思う。
意味を成さない暴言や言葉のナイフを、あたしは忌み嫌うから。
その言葉には、人間関係を築きあげる、発展させる、理解しあおうとする、努力や歩み寄りといったものが、失われている気がするから。
例え、関係が終結する時であったとしても、その終結にふさわしい理由とか道理に匹敵する言葉でありたい、と思う。
自分に対する慰めだったり、言い訳だったりするのかもしれないけれど、ね。

でも、ね。
「うるさい!クソババア!」って言える人間であったら、あるいは良かったのかな、なんて思う時もあるのです。
本当の意味では意味を成さないからこそ、その言葉の重みは、人間関係が修復できる程度には、まだ深刻ではないのかもしれないから。
「あのときは、あんなこと言っちゃってごめんね」で済むかもしれないから。

あたしは、割りと、何度も飲み込んで飲み込んで、考えて考えて、自分がこの先絶対に一片の後悔も罪悪感もない、という確信を持ってはじめて、言葉に出すから。
沢山の理由づけと理屈と論理の果てに、口から静かに飛び出した言葉は、深刻な重さをもって、関係を決裂させ、壊してしまうのかもしれない。
「そういうのは、おばあちゃんの人間性の本質を疑わざるをえないよ。」

あの時の言葉に、あたしは今も後悔も罪悪感も、持てずにいる。
意味のない暴言を吐ける自分であったのなら、
あるいは、あたしと祖母の関係性もまた違っていたのだろうか?

例え、そうだとしても。
あたしは、むやみに、無責任に人を傷つけるだけの言葉のナイフを振りかざすことはしたくないのです。

でも、果たして「人として、どちらが正しいのか」祖母との関係性が冷却の一途を辿る今、正直分からないのも、本当のところなのです。
そして、その言葉に対する極度の慎重さこそが、実はあたしの人間不信への表れなのかもしれない…のか…な?

まいっちゃう。まいっちゃうけれど。
それでも、意味のない暴言は吐けないし、心に沿わない言葉は出せない。
そして、そうだからこそ。
熟慮を重ねた果ての言葉は、何度も飲み込んだ末にそれでも出てきた言葉は、そう簡単には揺らがない。
何事もなかったかのようにはできない。したくない。
例え、そのことが、あたしを、どんどん孤独へと追いやったとしても。
言えないんだから、仕方ない…のかな?

ただ人はまた、歩み寄れることもあるから。
今はただ、来るか来ないか分からない、その時を、静観するしかあたしには成す術がないのです。
はふ。
世界がもし100人の村だったら
自由とか平等とか、コスモポリタニズムとか、そして平和といった、あたしの生きる支えとなっているものが、簡単に崩されてしまう夜。
そういった理念は、きっと今すぐあの小さな手のあの子たちを救えることなどできないんだ。
世界は平等なんかじゃない。
世界は決して平等なんかじゃない。
現実は、今日の食べ物に困る子供たちが、世界のあちらこちらで、必死に今日を生きていて。
現実は、リベラルな米国人学者の本の中で「南北問題」が諦念と切り捨ての論理で当然のように語られていて。
現実は、世界のなんたるかも知らないあたしが、臆面もなく机上の論理に走ること。

でも、あたしは、きっとまた明日も、何かを浪費して。
そして、きっとまた明日も、新聞を読んでニュースを見て、また自分と遠いところにある出来事について、机上の論理で考えるのだろう。

どこにも救いがないように見える世界の中で、彼らの笑顔が、眩し過ぎてみえました。
明日、あの子たちに、何かひとつでも嬉しいことがあったらいいな…。
はみだす個と人間性への拘り、またその誠実。
思うところあって、久しぶりに坂口安吾を読む。
坂口安吾の思想は、私の肌によく馴染む。
答えはひとつでないことは確かな事実だけれど、その事実こそが真実だ。
それくらいでいい、と思う。

『…たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!
我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。
何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することに狎れており、そのみずからの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ…』

私の中にあった違和感は、きっと、こういうことなのだろうと思う。

特攻隊で亡くなった若い人たちの命は悲劇だけれども、誤解を恐れずに書けば、「歴史的大欺瞞」の中で散って行ったからこそ、余計に悲劇だと思う。
余りにも大きなひとつの命と人生が、「歴史的大欺瞞」の中にあっては微塵となる。
特攻隊の人の辞世の句を読んだことはあるけれども、あまりに美しすぎる。
武士道とか勇士とか、そういうことではなく、「死にたくない!死にたくない!」ってもっと叫んだ句があって、本当は当然なはず。
本来ならば、喚いて、縋って、怒って、逆らって、拒否して、もっともっと足掻いて当然なはず。
時勢ということや、更にいえば、検閲ということがあるのだろうけれども。
その背後にある大きくて暗いどうしようもない権力の欺瞞が潜んでいることが、一番の悲劇であり、怒りだ。
もし安吾の言葉が、戦後ではなく、戦前・戦中に、多くの若者たちの胸に届いていたのなら、一体いくつの命が救われたことだろう、と、言っても詮無いこととは思いつつ、そう思わずにはいられない。

もし、お話させていただく機会があるのなら、あたしは特攻隊員よりも、脱走兵のお話を聞きたい、と思う。
安吾のいう「歴史的大欺瞞」の時代にあって、その大欺瞞に、人間の率直な感情でもって生を貫こうとした人の話を。
生を貫こうとして脱走した、ということは、また殺生を拒否したということでもある。

はみだす個とは、孤独できびしい道を辿ることになる。
時には卑怯である、国に対する裏切りである、と罵られたかもしれない。
でも、人間性を貫き、そこに拘った分だけ、彼らは人間であることに誠実だっただけなのだと思う。
PUZZLE


眠る前に、静かな音楽をかけて蝋燭を灯すのが日課になっています。
その時間にぼおーっとしたり、考え事をしたり、反省したり。

キム・アンダーソンの写真が好きです。
モノトーンの世界で、レディーとジェントルマンになった小さな女の子と男の子。
可愛いな♪と、見ていて自然と微笑んじゃいます♪
昔、ハイソフトのキャラメルにおまけのカードとして入っていて、それらのカードを集めて応募して、写真集をいただいたこともありました。
この世界観がとっても好きで、今でも実家のお部屋にはいくつか額にアンダーソンの写真のパズルをいれて置いています。
でも小さい頃は、「どうして男の子と女の子のばっかりなんだろうなぁ」と、ふと思ったこともありました。

この前見た映画について、あれこれ考えています。
時間が、まだまだかかりそう。
でも、今日読み終えた一冊の本の中に、ひとつパズルのピースがあったような気がしました。

「世界中が無視しても誰か一人ぐらいは線香を灯すというか、そのくらいのことはしてあげないといけないと思うんです」

「−報じられない人間の悲しみ、分類されていない人の苦悩に、個人としてどこまでもこだわることが大事ですね。そこがやられていないと、単なる評論に終わる。単なる嘆きとか、単なる批判に終わると思うんですよ」

                         『反定義ー新たな想像力へ』

朝鮮半島から、強制連行で日本へ連れてこられて、日本兵として召集令状が来る。
原爆で亡くなったコリアンの方たちも沢山いたし、靖国神社には死んでも祭られたくないと思いながら、祖国のためでもなく亡くなったコリアンの方たちも沢山いた。
そして、彼らの子孫たちが、今日本にいる。
祖父母の代に、親の代に、好きで日本に来たわけじゃなくて、強制的に奴隷として連れてこられた方たちに対して、「国に帰れ!」と、冷酷に言い放つ社会、差別が残る社会。
犠牲者に対する追悼とお線香の光から、もれた犠牲者の方たちの存在。

報じられない人間の悲しみ、分類されない人の苦悩に、個人としてどこまでもこだわること。
井筒監督の姿勢が、その、いわゆるひとつのお線香なんじゃないかと、ひとつには思う。
勿論、お線香だけで終わってはいないんだけれど。でも。

昔、「どうして男の子と女の子のばっかりなんだろうなぁ」と疑問に思ったこと。
そういうことを忘れないでいたいな。

ひとつひとつを注意深くみて、丹念に組み上げて、ひとつとして共存しながら調和する。
そのプロセスと世界は、なんだかパズルのそれに似ている気がする。