ハッピーエンド目指して只今カナダで修行中なへなちょこフェアリーのお話♪
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所在
久しぶりに『アンネの日記』を読み返してみた。
はじめて『アンネの日記』を読んだとき、あたしはおこがましいけれど、彼女と自分の共通点に、秘密を共有した気分になった。
曰く、「矛盾のかたまり」で「二重人格」なところ、とか。
陽と陰。静と動。あらゆる二面性、背反性。そういうことを分かち合えたと勝手に思い込み、アンネ・フランクという少女にとても親密な気持ちを抱いた事を覚えている。
今大人になって読み返してみると、あたしはあれから全然成長していないのか?と心配になるくらい、15歳の彼女にあの頃と全く同じ目線で相変わらず深く共感し、重ね合わせ、更に驚くことには15歳の彼女の鋭い洞察力や観察眼、分析力に、ただただ圧倒されてしまう自分がいるということ。いやはや、どうしたものか・・・25歳のあたし(苦笑)
もっと勉強して大人にならなきゃいけないってことかしら?(汗)
ただそれだけ、15歳のアンネにとって、「世界」も「政治」も「戦争」も、そして「命」も「死」も、あまりに身近でありすぎたということもあるのだと思う。
それはあの激動の時代にあって、至極当たり前のことであったかもしれないし、彼女が特に賢い少女だったのかもしれない、しかしその一方で、それはひどく悲しいことだ。
彼女の日常は一見不便ながらもどこかで冒険じみた生活だ。が、しかしそれは「死」と隣り合わせにある日常だ。その影はどうにも消せない。アンネのユーモアをもってしても。
15歳の少女の世界は、もっと愚かなほどに甘く、憂鬱と退屈と夢想と希望とが繰り返す複雑で、かつ凡庸な、そんな世界だっていいじゃないか。
事実彼女が、切実に欲していたものといえば「元の生活」そのものだったのだから。

ナチの反ユダヤ主義政策。強制収容所。ホロコースト。
あたしは、これらの言葉に出くわすと、圧倒的に押し寄せてくるこの負の怒涛の感情を未だに何と呼べばいいのか分からずにいる。
悲哀?憤怒?残酷?冷酷?諦念?邪悪?嫌悪?憎悪?違う・・・絶望?いや、絶望じゃ足りない。全然足りない。
あたしはこの感情を持て余す。言葉に出来ずに、その場に立ち尽くす。
『アンネの日記』を読み返したのと同時に、手に取った本は、有名な『夜と霧』の著者、V.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』という本。
彼はダッハウ強制収容所の生き残りの精神科医だ。
『それでも人生にイエスと言う』は、彼が「生きること」について、とても解り易い文章で、世界や命や戦争や国家や病気や資本主義や自殺をテーマに書いてある。
「選択権」という文脈において、「自殺」や「安楽死」に対して比較的緩やかな考えを持っているあたしは、彼の考えと異なるところは勿論あるのだけれど、それでもきっと彼を前にしたら、きっとあたしは何も言えないだろう。たぶん、何も言えない。
あたしは、「心の中が爆撃を受けた」世代そのものだ。
V.E.フランクルはこう綴っている。
「収容所の中では自分が無になってしまっていたのです。生きながら死んでいたのです。私たちは何ものでもなかったのです。私たちはたんに無を見たのではなく、無だったのです。生きていてもなんということはありませんでした。死んでいてもなんということはありませんでした。」
無。生も死もない。何もない。貧困なあたしの想像力・・・。

エルフと2人で、「アンネ・フランクとホロコースト展」に行ったことがある。
(ぽちっ☆)

「時代が時代なら、あたし達も、収容所に連行されていたんだよね?」
強制収容所へは、ロマ(ジプシー)や精神病患者、政治思想犯、同性愛者も連行された。
あたしとエルフは、手をかたく繋ぐ。
押し寄せてくるあの感情、吐き気をもよおすあの不快感を正直我慢しながら見た。目を背けてはいけないと思った。
震えながら、パネルを見ていたそのとき、背後でおばさんのため息が聞こえた。
「・・・はぁ、人間じゃないねぇ」と。
・・・ナチは人間じゃなかった?ナチのしたことは人間のすることじゃなかった?人間性など持ち合わせてなかった?そうだろうか?
ユダヤ人を隔離し、虐殺したのは、人間だ。ナチを支援した人の多くは誇り高く、堅実で真面目なドイツ人で、家庭や家族を愛し、イエス・キリストを信じ、ゲーテに親しみ、ヘーゲルに学び、バッハやモーツァルトを楽しみ、国を愛した人間たちだった。
ナチスは、全うな選挙で台頭してきた党だってことを忘れてはいけない。
民主主義の落とし穴。マジョリティが必ずしも善とは限らない。
彼らを作り出したのも人間なら、ユダヤ人を無にしたのも人間だ。
人間を過信したらいけないし、人間の非人間性はいつもそこに潜んでいる。
それはあたし自身を含めて、責任の所在は人間にあるのだと認めなければ、きっとあたし達は何も学ばないかもしれないとすら思う。
自戒に自戒を重ねても、あたし自身の非人間性は、たぶん見えなさそうですぐそこに常にあるものなのかもしれない。

目を背けてはいけないって思った。
かつて無になってしまったものを、無のままに終わらせたらいけないって思った。
所在は、人間にある。あたしの中にこそある。
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お久しぶりです。fairyさん。
ナチの話確かにその通りかもしれませんね。
私も人間のすることじゃないと思っていました。
しかし、その党首をきめたのもドイツの人々と
聞いて、はっ!と我に返りました。。。。

思い込みというのか、それが正しいんだと信じてきたのか
ユダヤ人を殺すことが正義と信じてきてしまった。
でもそれでも待てよという人はいなかったのか?
その時代の流れという物なのか、それは
わかりませんが、
でも一つだけ、言わせていただくと
ドイツは、この事実をしっかりとみつめ
後世に伝えていく姿勢はすばらしいと思いました。
当たり前であると思いがちですが
実は日本はその逆にあたっていますよね

繰り返しを行うのも人間ならそれを断ち切るのも人間。過去をみて学べるのも人間なんですよね。

やはりまずは過去をしることですね☆
cola | 2007/12/02 1:28 AM
☆colaさんへ☆
おひさしぶりです♪
先週は、marieさんと素敵な時間を過ごされたようで、あたしもお二人の日記をドキドキしちゃいながら読ませていただきました☆
遠距離していて、会えた時の時間って、もぉ!ねっ?(#^.^#)幸せですね♪

うーん…当時のユダヤ人に対する差別がヨーロッパの中にあったことは勿論あるはずなんですけれど、でも映画『白バラの祈り』のように、勿論ナチスに反対する地下組織運動などもあったわけだし、みんなが正義と感じてホロコーストを是認していたわけでは絶対にないんですよね、勿論。
ただ、一度ナチスというファシスト政権に権力を明け渡してしまったら、例えば治安維持法や戒厳令などによって、国民はNOを言えなくなるんだと思います。一端有事になってしまったら、国民の権利なんてなくなってしまうし、命がかかると、人間ってやっぱりなかなかNOは言えないですもんね…。
ドイツ国民はホロコーストを是認したというより、第1次世界大戦後で大変な状況に陥っていて、そういう状況の中で強いリーダーを求め、その中でナチスの本質を見抜けるほどには、彼らは冷静でいられる状況でもなかったということもあるんだと思います。
あと、今もそうですが、やっぱり60年前も政治に関する無関心って大きかったんじゃないかなぁ、と。やっぱり忙しい日常の中で、政治という見えにくい世界に対しては、どこか無関心になりがちっていうか。
そういう意味では無関心の生み出す害悪って果てしなく恐ろしいって思いますね…。

そういう意味では、復古調の強いリーダーを求める時期、ナショナリズムの高まる時期、有事法案や9条改憲論の高まる時期っていうのは、やっぱり何処か、きな臭いものを感じてしまい、特に警戒心が高まります。
一度崩れてしまったらなし崩し的に崩れていって、あとはもうシビリアンコントロールなんてなくなり、国民は流されるがままです。
だからこそ、シビリアンコントロールの出来る時期に国民がきちんとチェック機能を果たすことが必要なんだって思います。

colaさんのおっしゃる通り、ドイツに比べて日本人の意識っていうのは、被害者意識がどうしても強くて、加害者意識っていうのが弱いなぁという印象は否めないですね。
やはり選挙ではなくて、政治的クーデターで軍事政権を許したということが、国民の責任感がいまいちつながらないんでしょうか?

>繰り返しを行うのも人間ならそれを断ち切るのも人間。過去をみて学べるのも人間なんですよね。

やはりまずは過去をしることですね☆

本当にそうですね。フランクル氏は、「ホロコーストをするのも人間なら、ガス室においてさえ祈りを捧げる高潔な者も人間」という風に言っていて、本当人間とはつくづく多面性があって難解な生物だって思います。

過去を知ること。過去から学ぶこと。
うん、絶対大事です。本当、絶対!!!
| 2007/12/02 10:05 PM
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