ハッピーエンド目指して只今カナダで修行中なへなちょこフェアリーのお話♪
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de petits bonheurs sont aux petits bonheurs
  
                      

 久しぶりに会った親友とはいった
 カフェで頼んだアイス・カフェ・ラテ・フロートが
 予想外の大きさで美味しかったり。
                    


 その親友から特別な日でもなんでもないのに、
 突然素敵な香りのするアロマ・キャンドルを
 プレゼントされて、
 とっても嬉しかったり。









 最近、毎日お料理をしている。
 生きるのに必要な食を作りだすということ。
 知り合いのオーストラリア人のアーティストが
 「料理は、音楽と一緒で、宇宙を創りだす事なんだよ」
 と言ってた言葉に感動してみたり。






 お肌の気になるお年頃(苦笑)
 最近話題の韓国コスメ「BBクリーム」に
 ついつい手を出してしまったり。
 でも「美しくなりたい」という気持ちは
 大事にしていたいと自分に活をいれてみたり。





 カップル友達のお家で飲み会。
 お友達へのバースデー・プレゼントは、
 小さなヘリコプターの室内ラジコンbyエルフの一押し(笑)
 早速飛ばしてみようと、
 ヘリコプターがお部屋の中をくるくると旋回しはじめた途端、
 「わあぁぁぁぁ♪」と、子供みたいにはしゃぐ
 大人4人の無邪気さが、
 なんだか微笑ましかったり。



小さな幸せを見つける幸せ。

そういえば、エルフと一緒に居ると、
なんでもなーい事が、お腹かかえるくらいに可笑しかったり。
なにげなーい一言に、ドキッとさせられちゃって照れてしまったり。

De petits bonheurs sont aux petits bonheurs
小さな幸せは、あてずっぽうに在るもの
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演技と逆転する視点

スピーチ・パフォーマンスが無事終りました。
毎朝早起きをして、毎日終電で帰る、そんな生活の中で、
慣れないながらも演技や表現をすることと、真正面から向き合う日々でした。
相手役の子と、かつてあの蜷川幸雄氏の下で演出助手をしていた方の演技講座を受講してみたり!
感性を磨くために、コンテンポラリー・ダンスを観に行ったり!
それと同時にカナダに出すリサーチ・プロジェクトの論文も書かないといけなかったりで、
とても忙しく、久しぶりに目の下にクマなんぞを作りながらでしたが(苦笑)、
本当に刺激的で楽しい時間でした!

演技なんて多かれ少なかれ、人間誰しもが社会においてロールプレイという社会的義務のようなものの中でしているものだ・・・と思っていたアサハカなあたし(苦笑)
とんでもない間違いでした。すみません!
演技って、とってもムツカシイ・・・。
普段は何気なくしている行為ひとつひとつも、ひとつの演技として表現するためには、
論理性と感情、あらゆる想像力と可能性、主観と客観の狭間を行きつ戻りつしながら、
磨いて磨いて、凄まじい集中力とエネルギーを使うものなんだということを今更ながらに実感。
面白いのは、虚構の役を演じることで、より自分自身との新たな出会いや発見があったり、
深く自分を抉ることができたりすること。

あたしはいい意味でも悪い意味でも、「我」というものが強いので、なかなか演技ができずに、
自分自身に終始してしまいがちだったのですが(笑)
それでも、ほんのちょっとだけ台詞が台詞じゃなくなって、自己から解放される瞬間があったりして。
ストイックさの果ての解放感が気持ちいいっていいば、これがなんとも気持ちいいっていうか。
言葉を探るのと同じで、演技を探る過程が、すごく面白いと思う。
ちょっとはまってしまいそうなくらいに。

舞台で演技をするという機会なんてなかなかないので、
自分のやりたい事をおもいっきり詰め込んでしまおう!という感じの舞台だったのですが、
ロマンティックなジャズ・ナンバーをいっぱい使って、ダンスも取り入れて、台詞も凝って、
フランス映画ぽい舞台が出来て、ラストなんてハットで隠しながらのキス・シーンなんてしちゃって、
よもや「政治」なんてダーティーな要素はいずこへ!?というくらいにロマンティックな舞台にして、
お客様からの反応も、「くすくす♪」と、すこぶる楽しんでもらえたので、本当に大満足でした。
相手役の子なんて、ファンがつきそうなくらいに、キザ〜な仕上りになっていて、
あたしのサル芝居が申し訳ないくらいでした(苦笑)
そうそう!賞も取っちゃったんだった☆←楽しすぎて、賞の事などどうでもよかった2人でした(笑)

見ながら見られ、見られながら見、それでいて魅せなくちゃいけないという・・・。
これまで「自分が自分でありさえすればいい」と思っていたあたしですが、
「他者から見られる自己」という視点から逃れることなどできないという当たり前の事実に改めて気がついた、素敵な日々でした。

エモーションとロジック
エモーションをコントロールしつつロジカルに話す事と、
エモーションとロジックを切り離して話す事とは、根本的に違うと思う。

強いエモーションが心の奥にあればあるほど、言葉はより冷静なロジックになる。
心底変えたいと思うのならば、より多くの人を説得しなきゃ、何も変わらないから。
感情的にどうでもいいコトなら、どうでもいいロジックにしかならない。
それとも、ロジックのためのロジックを楽しむために、機械にでもなる?
人間が、人間である限り、エモーションとロジックは、切り離すことなんてできない。
エモーションがロジックを生み、そしてロジックがエモーションを生む。
そこに、何かを変えるエネルギーが生まれる。
だから人間は、機械になってはいけない。

今日何処かで、一人の子供が、ゴミのように使われ殺されたのだとしたら。
本気で怒って話をしたっていいじゃないか!
「サード・ワールドという言葉は良くない」という連中が、第三世界について、「ロジックとエモーションは切り離して語る」という。
結局、人間として生かしてもらえない子供達を作っているのは、マシーンになってしまっている大人達だ。
時には冷静な顔で、時には穏やかな顔で、平然とロジックとエモーションを切り離して語る大人達だ。
もっと怒っていいじゃないか!感情的になったっていいじゃないか!
世界はそう簡単には変わらないけれど、でも今日何処かで、あまりにもひどい扱われ方で小さな子供がゴミのように殺されてしまったのだとしたら、
本気で怒って、本気で語ることくらいしたらいいじゃないか!
それすらしてもらえない死なんて、悲しすぎる。

人の偽善を見ては、自分の偽善に、吐き気がする。
第3世界の現実は、目を覆いたくなるくらいに残酷だけれど、
まったくこっちの世界だって、同じくらいにシットな世界だよ!
いや、シットな世界が搾取して作る世界だから、サード・ワールドがシットになるのか?



神様なんていないよ、悪いけど。
エモーションを押し付けすぎて理不尽だったばっかりに、ロジックによって殺されてしまった神様が創ったマシーンたちが、賢そうなふりして不幸を大量生産しているこのファッキン・ワールド。

正直、今何ができるわけでもないけれど、本気で怒って、語ることくらいはできるはずでしょ?
アカデミアとかじゃなくって、西洋と東洋じゃなくって、先進国と途上国じゃなくって、
ただ人間として、本気で怒って、嘆いて、語ることくらいしたっていいはず。
木ヲ想フ。
コンテンポラリー・アートを観に、森の近くの美術館まで足をのばしてきました。
コンテンポラリー・アートを観るのって、結構すきだったりします。
シュールすぎて意味わから〜ん!!っていうのも中にはあるけれど、その意味の分からなさが逆に笑えて面白かったりするし。
もうアーティストの名前も忘れてしまったけれど、ニューヨークの美術館にあった作品で、延々と戦争もののテレビ・ゲームの映像と共にジョン・レノンの『イマジン』がかかっている・・・といったメッセージ性の高い作品には、やっぱり考えさせられるし。
今日行った美術館でも、そんな作品が沢山あって、「現代のアーティストって、やっぱり戦争とか環境問題とかに恐怖や警戒心を敏感に持っているんだね」と思わずエルフにささやいたほどでした。
一通り観終わったと、エルフから「どの作品が一番よかった?」と聞かれ、
ある作品のタイトルを言ったところ、エルフも「だよね」と、2人で頷きあった作品がありました。
照屋勇賢 『告知-森』

使い捨ての紙袋の側面を切り取り、その切り取った部分から木を組み立て、元の箱の中に立てる。自然光の下におくと、箱の中の繊細な木のなかに生きている木の強さと存在の証明を見ることができる。(照屋勇賢HPより抜粋)


『ゴディバ』とか『シャネル』の紙袋の中で、大量消費の象徴である紙袋の小さな世界の中で、破壊されながらも確かに、リヴァイヴしている木という存在。
他にも、彼の作品を観ましたが、あたし、この人の作品すきです。
彼の作品は、政治的メッセージを多分に持ちながらも、それだけでは終らない美しいアートであって、そしてまたその美しいアートは、その単純な美しさだけに評価されるべきものではないほどに、強いメッセージがあるように思います。
あたしは、どちらかというと美術に疎いので、純粋な美よりもメッセージ性のある作品がすきなのかもしれませんが、でも逆にいえば、思想なき美は、どんなに美しくてもあまり心を動かされることもないように感じます。
心が動くかどうか・・・彼の作品は、心が動くんです、思考が始まるんです。
リンクに照屋勇賢さんのHPを貼ったので、興味のある方は是非リンクから、どーぞ。

美術館を出た後は、涼を求めて、森の中へ。
森の下で、優しい風に吹かれながら、光と影の揺れる中で、お昼寝したり読書したりしながら、「あぁ、木に癒されてる。守られてるんだなぁ。」って思いました。
木って、本当に優しい。
先日、環境保護のNGOの方から環境に関しての歌の英語歌詞を作ってくれないか?と頼まれて、「あたしなんかでいいのだろうか?」と申し訳なく思いながらも、お手伝いさせていただいて、あたしにできる事ってすごく限られているんだけれども、でもできる事からはじめよう!できる事が目の前にあるのならしよう!っていう気持ちは持っていたいな、と。
エルフとも、「一緒に暮らしたら大きな木を植えよう」って話をして、自分達のできることから、何か少しでも、今日あたし達を癒してくれた木に「ありがとう」を返していきたいなーと思うのでした。
水溜りのサカナ


わたしはきっと汚れているだろう。
海の藻屑を食べたから。海の水を飲んだから。
しかしそれゆえ
わたしは盲目的に水溜まりを遊ぶことはない。
綺麗すぎる清流は、飲めないし。
美しすぎる雨では、泳げない。

わたしは泳ぎ続ける。
逆さまに泳いで、流れに逆らって。
泳いで、泳いで、水面を揺らし、渦を作り、そして濁す。

わたしの背びれも、わたしの尾ひれも、
汚れ、傷つき、そしてぼろぼろになってしまうだろう。
疲れ果て、虚ろな目でみて、はじめてみえる複雑な世界。
そこにこそ、真珠は眠っている。

Rebirth to Survive
この2週間、本当にいい出会いや刺激や思考やディベートや視点に毎日毎日出会い、まるで生まれたての赤ちゃんのように、水の湧く砂漠のように、脳がスポンジみたく様々なことを吸収していくのが分かる毎日でした。本当に凄まじいエネルギーで。
おかげで、週末は、いい意味で、疲労困憊(苦笑)
これから1年間、こういう毎日を過ごせると思うと、本当にあたしはラッキーだなぁと思うし、勉強を続けることが出来る環境に在るということに感謝なのです。
あたしの通っている学校は、アテネ・フランセのような学校で、年齢も学歴も背景も全くのバラバラで、政治家あがりのおじさんやグローバルに活躍する企業で働く人や、芸術分野での成功を目指している若い子など、本当に多種多様な集団なんですが、みんな、目的意識があって、視野が広くて、マイウェイを突き進んでいて、すごーくタフ、そして本当にいい笑顔を持っている。
「あなた方が日本の善きリーダーになるのです!」と言われて、自分はエリートだ!インテリだ!と勘違いしているちゅまんな〜い政治家ばっかりを輩出している某松○政○塾とは、全然違う雰囲気があって(苦笑)、そこには、自主的ドロップアウトの強い人もいれば、反エリート主義のハーバード卒の教授もいて、なんていうか、本当のインテリジェンスを知っていて、心から学ぶ事を楽しんでいる人達が集まっているかんじ。
集団に対する警戒心が強くて、集団の生み出すエネルギーを毛嫌いしているあたしですが、彼らは「個」を大切にしながら、優しい「和」を持とうとする意思や姿勢を持っているので、居心地がとてもいい。
こういう雰囲気が、日本の小・中・高のクラスの中に作れたら、日本は本当に変われるかもしれない、と思わせてくれる何か、が其処にはある気がしています。
入学式の席で言われたコンセプトに
「どの国の、どんな環境の、どんな状況であっても、予測不可能で、余裕のない、競争原理の激しい現代社会において、生き抜ける人間関係力、コミュニケーション能力、全体を見通す力、発信力のある人材を育てること」
というのがあって、英語でそれをおっしゃっていたのですが、「桜咲く季節」とかありきたりな美辞麗句をすっとばして、生の言葉で本気で語る姿勢に、胸を打たれました。
確かに、ここの卒業生、日本人のいい所も、国際人としての強さも、どちらも持ち合わせている方が多くて、変にアメリカナイズされるのでもなく、変に以心伝心や察する文化を過信する人もなく、すごくバランスのとれた方が多い気がします。
ここでは「rebirth」ということで、イングリッシュ・ネームをいただくのですが、
あたしは小さい頃にイギリス人の父の友人からいただいた名前を敢えて封印して、
自分で「sophia」という名前をつけました。
ソフィアは、智慧や叡智、哲学を意味する知性の女神を表しています。
矢張りこのカオスの時代において、「自分で考えること、自分で行動すること」は、すごく大事な鍵だと思うのです。
この名前を大事にして、これからまた、新しい世界の扉を沢山開こうと思います!
楽しみ♪



どこまでも高く蒼い空の朝に Loopする現実からの出口を求めて
斜めに社会を見ているつもりがなにも 大きな力が見せてくれている幻だと
不意つく言葉に不安を感じてごまかす 卑劣な愛をくれる人で
眠らせてた力を群れの中で光り輝く為 この歌で自分を取り戻す
夜に彷徨う魂に断罪を 意思を曲げない戦士に喝采を
私は歌う 明日のない顔に
自分を信じた今に感動を 同じ心持つ者に成功を
私は願う 明日へ向く顔に

Statusだけに生きる価値を見い出して 甘やかされた時代世代
流れの中でいきがって でも拳を突き上げる人から感じる
前に進もうとする意思から 時は刻まれる
明日につながる新しい絆で変えたい フザケタ鏡を照らす光を
根性は貧弱 満ちた個性ばかりに執着 脱ぎ捨てるちっぽけなPride
夜に彷徨う魂に断罪を 意思を曲げない戦士に喝采を
私は歌う 明日のない顔に
自分を信じた今に感動を 同じ心持つ者に成功を
私は願う 明日へ向く顔に

                 Written by Vo Vo Tau
団欒の輪
旅行に行って改めて気づいたこと。
「和」のもつあったかさや安らぎの中に、団欒があるっていうこと。
それは、例えば最近流行りの昭和30年代当時のような伝統的な家族構成というようなイメージの団欒でなければならない、ということではなくて。
核家族なら核家族の、母子家庭なら母子家庭の、父子家庭なら父子家庭の、老夫婦なら老夫婦の、ゲイ・カップルならゲイ・カップルの、同じ団欒を囲む者という意味での、あらゆる多様な家族を排除しない意味での「家族の団欒」ということ。
つまり、重要なのは、「団欒」といえる時間を、それぞれの家族が過ごせているかどうかということだ。
顔を合わせて、向き合いながら、食事を取る。何気ない話の中で、コミュニケーションを取る。
案外、そういった日々の何気ない団欒の中に、現代社会に蔓延る病理に対するワクチンのひとつがあるのかもしれない、と。

ワーキング・システムの変化。労働の長時間化・残業・深夜労働。
家族の団欒を削ってまで、働かざるをえない人たち。
友達の彼がフランス人なんだけれど、彼は日本に来ると、こういう。
「日本って便利すぎて嫌だな。コンビニとかって、本当に必要なの?」
コンビニ大好きな友達は、彼の言葉にぷんすかしていたけれど、あたしはどちらかというと彼の発言に激しく同意しちゃう。
確かに飲み会の帰りに買うお茶とか、お友達と夜買いにいくお菓子とか、何気なく「コンビニって便利だな」なんて思っちゃうこともあるんだけど。
でも、そんなケースって、あたしの場合一ヶ月に何度もないし、大抵の場合、深夜でもこうこうとついている明かりを見ると、「このエネルギーも、電気代も、無駄だよなぁ」って思うことのほうが多い。
それは、深夜まで営業しているスーパーマーケットだって同じだと思う。
もし、終業時間が早めに終るのであれば、会社帰りにもっと早くお買い物に行けるわけだし、そうであれば深夜営業のスーパーマーケットは不要だ。逆に言えば、終業時間が早くて、お店が早く閉まるのであれば、消費者の方でも、心積もりをもって、「まだお店開いてるから、後でいいか♪」とは思わなくなるはず。
そして、そのシステムにおいてなら、お店が早く閉店することだって、「やや不便」ではあっても、消費者の方でなんとか調整できるくらいの「不便さ」でしかないと思う。
要は、普段便利だと思って過ごしているコンビニやスーパーや、その他多くの深夜・24H営業店の存在と、労働の長時間化・残業・深夜労働が、共犯関係にあるということ。
そして、そのようなシステムは、果たして本当に豊かと言えるのかどうかってこと。
少なくとも、労働の長時間化・残業・深夜労働は、労働者の健康を侵食し、無駄なエネルギーを消費することで環境を悪化させ、そして家族の団欒という貴重な時間を奪っているといえると思う。
そして、健康や環境や団欒といったものを犠牲にするに等しい利益を労働者はきちんと得ているのか、といえば、恐らく現状は違う。
固定化する格差社会。過労死。自殺率の増加。精神疾患。希薄化する家族関係。
「国際競争力」を理由に、儲けているはずの企業が、労働者にきちんと還元しない現実。
グローバリゼーションの大きな波の中で、より安価な労働力を求め、国内労働者を使い捨てたあげくに簡単に切り捨てる。海外では、最低限以下の賃金で労働者を雇って、コストダウンを図る。競争の中に飲み込まれていく企業倫理と伝統的価値観。海外・国内における搾取。儲ける人は汗をかかず、ワンクリックで儲けるのに、働いても働いてもマトモな生活が出来ないワーキング・プアは増加の一途を辿る。
ナンノタメニハタライテイルノカ?
例えば、100円ショップは便利で安くて大好きなんだけれど、これを汗水垂らして作った人たちは、「家族の団欒を楽しんでいるだろうか?この労働に見合った報酬をきちんと受け取っているのだろうか?」なんて事を一瞬考える。
ドウナンダロウ?

一方では、家族の団欒とは切っても切り離せない「食の安全」が叫ばれている今日。
安心して口に物をいれられない食事。
コスト・ダウンを図り、国内の農業従事者を潰し、海外依存激しい日本の食事情。
種植えから、収穫、加工、商品化、流通、販売、過程が見えずに自然に溢れかえっているように勘違いするから、飽食が起きる。
次から次へと捨てられていくモノ・モノ・モノ。飢餓で毎秒死に行くヒト・ヒト・ヒト。
「国際競争力をつけて強い国家へ」と叫ぶ政治家は、口を開けば「安全保障には軍事力が必要!日本の安全保障が危ない!」という。
ちょっと、その前に日本の食物自給率は40%以下なんだよ?
食べ物すら自国で満足に補えない国なんて、本質的には国際競争力も安全保障もあったもんじゃない。
中国バッシングに湧き上がるマスコミ、自らテロを誘発するような戦争に参加しといて安全保障をバカみたいに繰り返す前に、「本当に豊かな国の地図」をもう一度描く必要があるんじゃないかなって思う。
税金の使いどころ、間違ってない?本当に?
ギョーザ・ショックから、高額でも国産に消費者の目が向いてきているという。
中国の富裕層の間では、日本のお米や野菜が高額で売れるという。
NHKの番組で、エコノミック・アナリストが、「ものづくり大国ニッポンの、ブランド・バリューが正当に評価されて、頑張って毎日を働いている労働者達が正当な報酬で報われる時代が来たといえる」と、嬉々としていう。
ウソ!ウソ!ウソ!
国内の労働者は、「国際競争力」の一言で、会社は儲けていているのにもかかわらず、絶え間ない設備投資の名目で、マトモな報酬を奪われ、正規雇用すらされずに、広がる格差に喘いでいるというのに?
ダレガハタライテ、ダレガモウケテ、ダレガクルシンデイルノ?

毎日起こる青少年による殺人、いじめ、万引き、援助交際、リストカット、引きこもり。
誰もが口をそろえて、「いい子だった。大人しそうな子だった」という。
キャピキャピしながら、深夜を徘徊する少女たちは、「だって家にいてもつまらない」という。
サミシイ!サミシイ!サミシイ!
聞こえない「助けて!!!」を、何気ない団欒の中で気づけるほどには、親達のほうには余裕がない。住宅ローン。教育ローン。バイオ燃料に伴う物価上昇、膨れ上がる一方の税金、そしてその税金は、役人の快楽のためにごみのように消費されゆく。
自分達のように、身を粉にして働いて欲しくないから、親は子供に高学歴・高収入を期待する、多様化するようでいて画一的な勝ち負け・損得の価値観に翻弄される親子たち。
ベンキョウシロ!ヒトニマケルナ!イイガッコウヘイケ!
連日の塾通い。親からのプレッシャー。ライバルでしかない友人。
どうせ分かってもらえないと、口を閉ざし、心を閉ざす、子供たち。
そして逃避。バーチャルの世界へ。救いがたい暗い暗い精神の闇底へ。
逃避先に潜む、いじめ、売春、犯罪への、誘惑と罠。

家族団欒の崩壊。

あたしは、別に共産主義者じゃないし、経済のことなんて正直よく分からない。
でも、どこか資本主義の悪循環の連鎖が、膨れ上がって、様々な病理に蝕まれているような気がする・・・。
全くの悪循環。がん細胞のように広がりつつある現代社会の病理。
一億総中流時代であったはずのあたしの肌でも感じられる、違和感の足音。

本当の豊かさって、本当の幸せって、いったい何だろう?
今夜、父は仕事の都合で不在だ。母と二人の食卓。
果たしてその答えは、あったかい食事と母の笑顔の中にあるのだろうか?
分からない。
分からないけれど、家族団欒の輪と和の中に、狂ってしまった歯車の欠片があるような気がした旅の途中。
Happy Birthday To An Immature Chameleon
ということで、26歳♪
まだまだ二十歳そこそこに間違われてしまう年相応な貫禄のない大人です、えぇ(汗)
大人になりかたも、マイペースなのかも。
理不尽さを飲み込んで必死で社会という戦場で闘っている友人達や
理屈を超えて許せるような大きな愛を知っている子育て奮闘中の友人達に比べて
義務と責任と理屈さえ通れば、自由も権利も自己主張も許されるあたしは
まだまだ未成熟なところが多いかもしれないなぁ、なんて恥ずかしくなるお年頃。
なーんにも分かっちゃいない。ほんと、なーんにも。いつまでも幼稚なんだなぁ。

考えてみれば、20代も後半戦。時の過ぎること、いと早し。
あたしにとって20代前半は、思えば自分を知る時期だったんじゃないかと思う。
自分という人間を知ること。ちゃんと受け入れてあげること。
自分という人間を見失わないであげること。
ちゃんと愛せるように、知って、受け入れて、見失わないで、生きて。
「未完のカメレオン」
あたしは自分自身を、かつてそう表現した。
誰に認識されなくても、
次から次へと変わる色と、決して変われない色とのバランスを持て余しながらも、
それでもあたしは自分自身が、カメレオンだという事だけは知っていた。
未完も未完の、アンバランスでひどく臆病なちっぽけカメレオンではあったけれども。

じゃあ、20代後半は?
もうちょっと、自分の内的世界から出てみたい、という気持ちが最近になってやっと。
外見と中身。自己の内面の中のあらゆる多面性。警戒心と人間不信、社会への懐疑。
自分が自分でありさえすれば、誰に理解されなくてもいいと思っていた事。
意図するところでも、意図しないところでも、あまりにも大きく隔たるものを、
自己の中で、外界とのバランスさえ取れて、自己の中でさえ見失わなければいいと思っていたものを、もう少しだけ、殻を破ってみたい、という気持ち。
セクシャリティーってことじゃなくて、もっと本質的なこと、あたし、という人間。
「理解してもらいたい」だなんて、子供ぽいし、幼稚で格好悪い、第一まず不可能って思ってたけれど。
全て曝け出すことや、全て理解してもらうことを欲してるのでもなく期待しているわけでは決してない。そういう気持ちはなくって。
そうじゃなくって。
それでも、時として、そこに自ら橋をかけることこそ
大人になることなんじゃないか、と最近思い始めている。

少しくらい転んだって、傷ついたっていいから、飼い慣らされず、閉じこもらずに、まずは自分の足でしっかり立って、
他の何にもなれなくていい、完成なんてしなくたっていいから、あたしは、もう少しだけまあるいカメレオンになりたい。
ただ、それだけ。
すっごく子供ぽくて、自分でも呆れちゃうんだけれど。

そんなわけで、日々あちこちぶつかりながら思春期脱出試行錯誤な26歳(苦笑)
いやはや、お恥ずかしいこと限りないのデスσ(^_^;)
とりあえず、元気に笑って、前を向いて、ちゃんとひとつ年をとろうと思います☆
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神様の手


とあるブログで紹介されていた、「神様の手」の画像。
沖縄の空で撮影されたらしいのです。


この手に縋りたい。
どうしようもないこの世界の現実に途方に暮れては、この手に縋りたくなる。
自らの手を、自らの目を、自らの足を、自らの心を、立ち止まることもなく。
でもこの手に縋って祈るだけじゃ、きっと世界は何にも変わらない。
所在
久しぶりに『アンネの日記』を読み返してみた。
はじめて『アンネの日記』を読んだとき、あたしはおこがましいけれど、彼女と自分の共通点に、秘密を共有した気分になった。
曰く、「矛盾のかたまり」で「二重人格」なところ、とか。
陽と陰。静と動。あらゆる二面性、背反性。そういうことを分かち合えたと勝手に思い込み、アンネ・フランクという少女にとても親密な気持ちを抱いた事を覚えている。
今大人になって読み返してみると、あたしはあれから全然成長していないのか?と心配になるくらい、15歳の彼女にあの頃と全く同じ目線で相変わらず深く共感し、重ね合わせ、更に驚くことには15歳の彼女の鋭い洞察力や観察眼、分析力に、ただただ圧倒されてしまう自分がいるということ。いやはや、どうしたものか・・・25歳のあたし(苦笑)
もっと勉強して大人にならなきゃいけないってことかしら?(汗)
ただそれだけ、15歳のアンネにとって、「世界」も「政治」も「戦争」も、そして「命」も「死」も、あまりに身近でありすぎたということもあるのだと思う。
それはあの激動の時代にあって、至極当たり前のことであったかもしれないし、彼女が特に賢い少女だったのかもしれない、しかしその一方で、それはひどく悲しいことだ。
彼女の日常は一見不便ながらもどこかで冒険じみた生活だ。が、しかしそれは「死」と隣り合わせにある日常だ。その影はどうにも消せない。アンネのユーモアをもってしても。
15歳の少女の世界は、もっと愚かなほどに甘く、憂鬱と退屈と夢想と希望とが繰り返す複雑で、かつ凡庸な、そんな世界だっていいじゃないか。
事実彼女が、切実に欲していたものといえば「元の生活」そのものだったのだから。

ナチの反ユダヤ主義政策。強制収容所。ホロコースト。
あたしは、これらの言葉に出くわすと、圧倒的に押し寄せてくるこの負の怒涛の感情を未だに何と呼べばいいのか分からずにいる。
悲哀?憤怒?残酷?冷酷?諦念?邪悪?嫌悪?憎悪?違う・・・絶望?いや、絶望じゃ足りない。全然足りない。
あたしはこの感情を持て余す。言葉に出来ずに、その場に立ち尽くす。
『アンネの日記』を読み返したのと同時に、手に取った本は、有名な『夜と霧』の著者、V.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』という本。
彼はダッハウ強制収容所の生き残りの精神科医だ。
『それでも人生にイエスと言う』は、彼が「生きること」について、とても解り易い文章で、世界や命や戦争や国家や病気や資本主義や自殺をテーマに書いてある。
「選択権」という文脈において、「自殺」や「安楽死」に対して比較的緩やかな考えを持っているあたしは、彼の考えと異なるところは勿論あるのだけれど、それでもきっと彼を前にしたら、きっとあたしは何も言えないだろう。たぶん、何も言えない。
あたしは、「心の中が爆撃を受けた」世代そのものだ。
V.E.フランクルはこう綴っている。
「収容所の中では自分が無になってしまっていたのです。生きながら死んでいたのです。私たちは何ものでもなかったのです。私たちはたんに無を見たのではなく、無だったのです。生きていてもなんということはありませんでした。死んでいてもなんということはありませんでした。」
無。生も死もない。何もない。貧困なあたしの想像力・・・。

エルフと2人で、「アンネ・フランクとホロコースト展」に行ったことがある。
(ぽちっ☆)

「時代が時代なら、あたし達も、収容所に連行されていたんだよね?」
強制収容所へは、ロマ(ジプシー)や精神病患者、政治思想犯、同性愛者も連行された。
あたしとエルフは、手をかたく繋ぐ。
押し寄せてくるあの感情、吐き気をもよおすあの不快感を正直我慢しながら見た。目を背けてはいけないと思った。
震えながら、パネルを見ていたそのとき、背後でおばさんのため息が聞こえた。
「・・・はぁ、人間じゃないねぇ」と。
・・・ナチは人間じゃなかった?ナチのしたことは人間のすることじゃなかった?人間性など持ち合わせてなかった?そうだろうか?
ユダヤ人を隔離し、虐殺したのは、人間だ。ナチを支援した人の多くは誇り高く、堅実で真面目なドイツ人で、家庭や家族を愛し、イエス・キリストを信じ、ゲーテに親しみ、ヘーゲルに学び、バッハやモーツァルトを楽しみ、国を愛した人間たちだった。
ナチスは、全うな選挙で台頭してきた党だってことを忘れてはいけない。
民主主義の落とし穴。マジョリティが必ずしも善とは限らない。
彼らを作り出したのも人間なら、ユダヤ人を無にしたのも人間だ。
人間を過信したらいけないし、人間の非人間性はいつもそこに潜んでいる。
それはあたし自身を含めて、責任の所在は人間にあるのだと認めなければ、きっとあたし達は何も学ばないかもしれないとすら思う。
自戒に自戒を重ねても、あたし自身の非人間性は、たぶん見えなさそうですぐそこに常にあるものなのかもしれない。

目を背けてはいけないって思った。
かつて無になってしまったものを、無のままに終わらせたらいけないって思った。
所在は、人間にある。あたしの中にこそある。